私のヨーロッパ日記 目次
このブログはid:myeurotravellingが2016年4月19日から2016年5月3日までに行ったヨーロッパ周遊旅行の記録を残したものです。
myeurotravelling.hatenablog.com
どうぞゆるりとご覧ください。
4/19 大阪からアムステルダムへ
アムステルダムについたのはほぼ定刻通りの午後3時過ぎだった。久しぶりの12時間弱のフライト。養鶏場のニワトリのように狭い座席に押し込められ定期的に水や餌を与えられる12時間は本当に長く、疲れきっていた。また、隣の席に座っていた若い男が、うたた寝をするたびになんどもこちらにもたれかかってき、臭い整髪料のついた頭を何度もこちらの鼻先に押し付けてくるものだから、気分も最悪であった。
入国審査場ではびっくりするほどの長蛇の列に並び、スーツケースは自分のものだけなかなか出て来ずと、さっそくこの国のすべてを恨みたくなるような出来事が続き、本当にくたくたになってやっと外の世界に出た。すると、そこには生まれて初めてのヨーロッパがあった。まさにヨーロッパだった。日本ならば、すべてのものの影を消し去るほど煌々と蛍光灯が焚かれ、極彩色の広告がそこかしこに踊っているものだが、こちらはあくまで窓からの自然光と最低限のライトだけが頼りで薄暗い。そして、その中をせわしなく行き交う旅客たちは、それらの光に対する影として視覚に飛び込んでくる。モノトーンの世界の中、行き交う光と影はとても美しく、思わず声を上げずにいられなかった。
しばらくそんな風景をベンチに座りながらぼやっとみていたが、それよりもなによりも、自分が一文無しなことに気づいた。ユーロを持っていない。で、キャッシュカードでATMから現金を取り出そうとするもなぜかエラーで使えない。とにかく空港から市内に向かおうとクレジットカードで列車の切符を買おうとするもなぜか買えない。なんとヨーロッパ周遊1日目から詰みである。まあこんなとき何が吉と出るかわからないもので、もう一度一か八かで試してみるとなぜか切符は購入できた。なにかヨーロッパの神か悪魔に弄ばれているような感じを受けつつも地下に降り、列車に乗ったら次の試練が待ち受けていた。スーツケースから突然バリっという音がし、あらぬ方向へバタンと倒れたのだ。なんだと見てみると、4つあるキャスターのうち一つが破けて取れていた。着いた途端にこれかよと、アムスへ向かう列車では車窓を楽しむ余裕もなく旅の前途を憂う他なかった。
キャスターが壊れたスーツケースをとにかく持ち歩きたくないので、予約していたホステルにチェックインすることにした。ホステルはアムステルダム中央駅の北側にあるアイ湾を渡る無料の船に乗ってから歩いて5分ばかりの場所にあった。さっそくチェックインをし、残念なことになったスーツケースをドミトリーの部屋に置いた。4人部屋のベット一つが一泊25ユーロ。安い。疲れていたが、まあとにかく街へ出ようと、また船に乗りアムステルダム中央駅へ。そこでまだユーロが手に入っていないことに気がついた。まあなんとかなるだろうと、街を散策することとした。
アムステルダムは本当に美しく、そして可愛らしい街だった。この後、向かうことになるベルリン、プラハ、パリ、ロンドンと比べて、華奢でキュートな印象を受ける街だった。運河沿いに並ぶ切妻屋根の色とりどりの住居はどこか学芸会の書き割りを彷彿とさせて非常にキッチュな印象をもった。いうならば街全体が舞台のセットのようなのだ。多分物語は少し楽天的な。
そんな街角で香るのがマリファナだ。オランダではマリファナが合法で、いたるところにマリファナを販売するコーヒーショップがある。ちょっと中を覗いてみたが、あの青臭いマリファナの匂いにたまらずすぐ出てきてしまった。とにかくコーヒーショップはどこにでもあり、マリファナタバコを吸いながら歩いている人はとても多い。広場の芝生の上でマリファナを吸いながら日光浴しているグループを見て、なんとも微笑ましいような何か違うような、不思議な気分になった。
そんな風景の中をふらふら歩いていると、もう一つのオランダ名物、飾り窓地区に到着した。いわゆる赤線地区だ。大きな古い教会を中心として赤い蛍光灯が灯っているガラス扉が並ぶ街並みがあり、夜になるとそのガラスの向こうに淫靡な下着をつけた女性が客引きをするらしい。春のヨーロッパの日が暮れるのは遅く午後9時くらいになってやっと暗くなる。着いた時は6時ごろだったのでまだガラス窓の向こうには誰もいなかった。夜にもう一度来ることにして、疲れたのでホステルに戻ることにした。
アムステルダム中央駅に戻り、もの試しとATMでもう一度キャッシュカードでお金をおろしてみたら今度は上手くいった。さっきはなんだったんだと思いながらも、だんだんと旅が軌道に乗ってきたような感じを受ける。そして中央駅の北側から船に乗りホステルへ。
部屋に戻ると誰もいなかった他のベッドに荷物が置かれていた。変な人でなければいいが、と思いつつ少しベッドで休んでからまた街へ。そしてまた船に乗り込み中央駅へ。日暮れのアイ湾はとても美しかった。
再び街を散策し、暗くなった飾り窓地区へ。びっくりしたのが、人で街が溢れかえっていること。老若男女の様々な人種が合法的売春現場を「観光」しているのだ。日本の大阪にも飛田新地という法の抜け穴をついたような現役の赤線地帯があるが、あそこを歩くのはだいたいが性に飢えた男たちで家族連れなどもってのほかだ。ところがこちらでは、同じ売春地帯にもかかわらず、まるでアミューズメントパークのように様々な国から来た人たちがガラス扉の後ろ側でポーズを決める売春婦たちを見学しているのだ。売春婦に見とれて覗き込んでしまった旦那さんの耳を、奥さんを引っ張るといったようなまるでコントのような光景をいろんな人種が繰り広げるのを何度も見ることが出来て、本当に嬉しくなってしまった。
この飾り窓地区はとても広く、何百人という世界中から来た売春婦たちがここで商売しているのだという。飾り窓地区の中心には売春婦たちを支援するボランティアたちの事務所があり、そこでこの地区の概要を学ぶことができる。
その事務所によると、彼女たちは毎日飾り窓の賃料として60ユーロから100ユーロを払っており、一人の客を取るとそのプレイに応じて50ユーロから100ユーロ得るのだという。なので1日最低二人の客を取らなければ赤字というわけになる。
また、この仕事を始めるには市役所に登録をする必要があるそうで、税金も払い、社会保険なども支払う必要がある。それほど簡単に稼げる仕事ではなさそうだ。
このような彼女たちをサポートするボランティアたちの事務所はアムステルダムだけでなくオランダ各所にあり、彼女たちの人権やお金の問題を援助しているのだという。(興味のある方はそのうちの一つであるP&G292のサイト https://www.pg292.nl/en/ を参照のこと)
オランダでは性に対してとても先進的なようで大人のおもちゃ屋やコンドーム専門店が堂々と軒を連ねるだけでなく駅のコンビニエンスストアではコンドームだけでなくピルまで販売している。またバイブレーターやローションといった大人のおもちゃ系まで売っているのにはびっくりしてしまった。ただしこれを見て日本よりも性に対してオープンかと判断するのはどうかとも思った。日本のように電車の吊り下げ広告に扇情的な女性のセミヌードが踊っているのもどっこいどっこいではないかと思うからだ。ああいうのは他の国ではあまり見たことがない。
まあそんな感じで赤線地帯を練り歩き、遅い食事をとり、また船にのりホステルに戻ったのは深夜12時過ぎ。時差の影響もあり、とんでもなく長い1日でiPhoneの記録によるとなんと30Km以上歩いていた。疲れてカードキーをタッチし部屋に入ると、なんとバスタオル一枚だけの半裸の女性が音楽に合わせて踊っていた。びっくりしてすぐさま出て行き部屋番号を確かめる。やはり自分の部屋だ。今度はノックをする。内側から声が聞こえた。「オーケー」中にはいると、バスタオル一枚だけだった女性がTシャツとショートパンツを履いて出迎えてくれた。初老の女性もいた。どうも母娘で旅行に来たようだ。「どうも、今晩お世話になります」などと挨拶する。向こうもにこやかだった。あまり英語が通じなかったが、まあ悪い感じではなかった。シャワーを浴びて、ベットに入り、今日1日を振り返った。とにかくとんでもなく長く、疲れる1日だった。ただとても楽しい1日でもあり、とても刺激的な1日でもあった。最後のバスタオル一枚だけの女性も含めて。
4/20 デン・ハーグ、スケベニンゲン、ロッテルダム
時差ボケよりも好奇心が勝ったからか朝の6:00にすっきりと起床、ルームメイトには迷惑だと思いつつ早速ホステルを後にし、船に乗ってアムステルダム中央駅に向かった。
アムステルダムは、明日こちらに住んでいる友人に紹介してもらうこととして、今日は周辺の都市に行ってみることとした。オランダは世界でも珍しいネットワーク型都市構造を持っている。首都であり商業、金融の中心地であるアムステルダム、首都機能、政治の中枢であるデン・ハーグ、工業、海運の中心地ロッテルダム、ドイツへのヨーロッパ内陸交通、運輸の中心であるユトレヒトといったそれぞれの役割を補完し合う都市が環状に連なっているのだ。そして4つの都市をダイレクトにつなぐのがオランダ鉄道で各都市を30分から1時間以内で結んでいる。スキポール空港からも直接各都市に向かうことが可能で、本当によく出来た都市計画、交通計画を持つ国である。
今回まず向かったのが政治の中心地デン・ハーグである。国家間の争いごとを調停する国際司法裁判所がある街だ。アムステルダム中央駅から特急で1時間弱で到着、運賃は11.5ユーロだった。デン・ハーグでは6.5ユーロの1日市内交通乗り放題チケットを購入。地図を貰ってどこに行こうかと計画を練ろうとしたところ目に飛び込んできたのがこんな地名だった。
SCHEVENINGEN
これもしかして、とインターネットで検索。やはりだ。スケベニンゲンだった。チンポー湖、エロマンガ島、オマーンなどの地理好き童貞中学生の心を掴んで離さなかった珍地名の一つがこのハーグの郊外に存在したのだ。心は急に中二に巻き戻りとるものも取らずにまずはスケベニンゲンへ直行した。トラムに揺られること20分あまり、ついたところは誰もいない北海沿いの浜辺だった。季節はずれのリゾート地、そこがスケベニンゲンだった。
まあとにかく何もない。ただ「スケベニンゲン」にやってきたことに満足してハーグへ戻ろうとした時だった。急に腹痛。水が変わったからだろうか、急にとんでもない腹痛に襲われた。とにかくトイレに行きたい。北海の浜辺に寄せては返す波のように高まる便意。決壊するわけにはいかない。スケベニンゲンでウンコモラシになるわけにはいかないのだ。駅やコンビニでトイレがどこでも借りれる日本と違って、どこに行けばトイレがあるのかなんてわからない。とにかく北海の浜辺をトイレを探して死に物狂いで走る事10分、なんとかリゾートホテルのロビーに駆け込み、「キャナイユーズウォッシュルームー」と絞り出すような声に応えてくれた「オフコース!」という言葉に本当に救われたのだった。
とにかくスケベニンゲンでウンコモラシになるという下ネタ王になる事だけは避ける事ができた。そんなことは全盛期だった中学生時代でも思いつかなかったことだ。それを40前の男が実現一歩手前まで行くとは、、まあネタにはなっただろうが。
(ところで、SCHEVENINGENは、こちらではスフェーベニンヘンと発音するようだった。誰だ、スケベニンゲンなどと嬉しがって翻訳した日本人は?)
閑話休題。トラムが国際司法裁判所が入っている平和宮の前を通りがかったので降りた。えらく大きな建物である。20世紀初頭にカーネギー財団により建てられたものだそうだ。中を見学したかったがそんな雰囲気ではなくスーツ姿のセキュリティガードが入り口を固めており入れる様子ではなかった。
それからまたトラムに乗り込みオランダの国会議事堂であるビネンホフを見学。こんなに簡単にはいっていいものかというくらいのおおらかさ。
ビネンホフを越えてハーグで一番来たかった場所、マウリッツ・ハウス美術館へ。「フェルメールの真珠の耳飾りの少女」で有名な美術館だ。日本でも一度、マウリッツハイス美術館展というものがありこの絵を見た事があった。オランダでもう一度見たかったのだ。
美術館に入って驚いたのが、美術館自体が17世紀半ばに建てられた芸術品であり、まるで名画の中で名画を見ているような気にさせられることだ。今回の旅ではこのマウリッツを皮切りにベルリンのペルガノン、パリのルーブル、オルセー、ロンドンの大英博物館と数々の美術館、博物館を見ていく事となったが、欧州では美術館や博物館は鑑賞する場所というよりも、経験する場所ということがよくわかった。作品だけでなく、その作品を展示するスペースや見せ方までとてもよく考えられている。日本でマウリッツハイス美術館展をしたところで、このマウリッツハイス美術館自体を持っていくことはできない。
マウリッツハイス美術館を後にし次に向かったのがエッシャー美術館だった。視覚の魔術師と言われたエッシャーはオランダ生まれだった。展示されている絵も面白かったが、各部屋に備えられたシャンデリアも特別にデザインされたもので非常に興味深く見る事ができた。
そして最後に訪れたのはハウステンボス。オランダ王宮の宮殿である。長崎オランダ村ハウステンボスの元になった建物である。長崎のハウステンボスは設計図を特別に入手しかなり精密にこの宮殿を模しているのだという。一度どのくらい同じか確認しに行きたいものだと思う。
ハウステンボスとは、「森の家」という意味だそうで、その名の通りこの宮殿はハーグの森と呼ばれる森林に囲まれている。この森がとても美しかった。
ハーグ中央駅にトラムで戻り、鉄道に乗って次はロッテルダムへ。ロッテルダムの主題は現代建築である。アムステルダムとは違ってナチスドイツの爆撃による被害が大きかったロッテルダムは斬新な高層建築が立ち並ぶ街として復興した。
ロッテルダムについて早速現れたのがロッテルダム中央駅。2014年に改築されたそうだが、なんとかっこいい建物か。
ロッテルダムの建物で一番有名といってもいいのがこのキュービックハウスだろう。1984年に設計されたサイコロを連ねたような形の建築物はなんと集合住宅であり、今でも人が住んでいるというのだ。キュービックハウスの内部を見学させてもらったが、やはりというかなんというか天井がすごい圧迫感でこんなところには住んでいられないだろうというのが正直な感想である。
またキュービックバウスで困るのはそのプライバシーのなさだ。窓から隣の家の住人が何をしてるのか筒抜けなのだ。今回も、隣のサイコロに住んでいる女性がシャワーから上がってきたところで着替える様子を親子連れと一緒に(幸運にも?)見学することとなってしまった。(写真はありません。: p )
以下、ロッテルダムで見かけた見栄え良い建物や地下鉄駅の写真をお楽しみください。
というわけで2日目も盛りだくさんの1日でまた30キロ以上歩く結果となった。
アムスのホステルに戻り、疲れ果てて部屋のドアを開けると、「キャッ!」という女性の驚いた声とともにまた視界に飛び込んできたのはバスタオル一枚で踊っている女性だった。昨日に引き続きだ。ノックをしていたのに音楽で聞こえなかったみたいだ。
また、今日二人目のバスタオル一枚の女性である。昨日の飾り窓を数えると欧州に来てから何人の女性の下着や半裸姿を目の当たりにしたのだろうか。かなりの数だ。幸先のいいスタートである。
ベットに潜り込み携帯を触っていると、新客が入ってきた。酔っ払いのオヤジであった。「どうもー俺、寝るだけだからー」というと僕のベットの上に上がりすぐにいびきをかいて寝始めたのだった。
4/21 アムステルダム
オランダ最終日となった今日は、オランダに住む友人がアムステルダムを案内してくれる日だ。
待ち合わせ場所のアムステルダム中央駅の玄関で待っていると友人がやってきた。懐かしい限り。おしゃべりが終わらなかったが、とにかく中央駅の前にある観光案内所でどこに行くか決めることにした。
アムス近辺に住んでいるのは知っていたが、学生時代の友人とこんな海外で待ち合わせをするのは本当に変な感じで、すこしのぼせてしまっていた。そんなスキを見逃さないのがスリの連中だ。おかしいなとは思っていた。なにか背後に人の気配がする。パッと振り返ると鞄のチャックが開けられていた。そして男と目があった。「何してるんだ」と一喝するとそそくさとその男は去っていった。小さめのキャスター付き鞄を持っていたから観光客を装っていたのだろう。一応確かめたが、何も盗まれていなかった。旅行慣れしている方だと思っているが、スリに遭うなんて初めてだった。幸運にも何も盗られなかったが。これは気をつけろという神の思し召しだと理解することとした。
まず友人に連れて行ってもらったのが船による運河巡りだった。運河の上から見る美しい街並みもこれまた格別だった。友人の話によると運河の上に浮かべた船に住んでいる人もたくさんいるのだという。たしかにハウスボートがいたるところに浮かんでいる。水の上に暮らすというのはどういう気分だろうか。一度試してみたい気もするが、蚊が多いんだろうなと思ったり。
運河巡りを終わらせ次はアムステルダム国立美術館へ。美術館の一階が自転車道になっており、改修の際にその自転車道を狭くしようとしたものだから大揉めに揉めて4年の工期が10年になったという美術館だ。なんとその姿が映画化され日本でも公開された(「みんなのアムステルダム国立美術館へ」)。これは国家的プロジェクトにおいても自転車乗りの意見も十分に尊重される本当にオランダ的な話だ。時間がなかったので中には入らなかったが、自転車道は健在だった。
そしてゴッホ美術館へ。ここは本当に感動した。この美術館は「ファンゴッホと目と目を合わせて」と題された数多くのゴッホの自画像と年表が展示されているフロアから始まる。観客はまずここでゴッホの人となりというものを俯瞰することとなる。そして次のフロアでは、拳銃自殺の一年前である1889年までの作品が展示されている。「ジャガイモを食べる人々」や広重を模写した「日本趣味」が展示されているのはこのフロアだ。そして次に進むと、ゴッホの死後に関する展示になる。ゴッホと同居していた弟の妻がどのようにしてゴッホの絵を世の中に知らしめたかを中心に展示が進む。あれ、途中飛んだなと思いながらも最後のフロアに向かうと、そこが1889年から1890年の最晩年に描かれた絵画が展示されているフロアだと分かる。1890年に描かれた「花咲くアーモンドの木の枝」は背景の青が本当に美しかった。そんな美しい作品も多いのだが、死に近くにつれゴッホ特有の「うねり」が強くなるのも非常によく見て取れた。筆使いが尋常でないのだ。ゴッホが苦しんだ精神病の影響もあるのか、どんどん世界が歪んでいく。そしてその歪みを作り上げる、そのうねる一筆一筆が見る者の胸をえぐる。見ていると苦しい、だけれども見ておきたい。絵を見てこんな気持ちになったのは本当に初めてで驚いた。今でも思い出すと体が震えるぐらいだ。
館内の写真は禁止なので、ちょうど満開のアーモンドの花と青空をバックに。
こんなことを言うと怒る人もいるかもしれないが、ゴッホは非常によくトレーニングを受けた画家によるアウトサイダーアートの一種なのだと思った。
アムステルダムの街に光が踊る
その後は、2日ぶりに飾り窓地区へ。売春博物館があるというので行ってみる。ゴッホを見た後だったので少々どうかなと思ったが、入ってみると思ったよりも楽しめた。売春婦の1日をビデオで見ることができる。近くに住んでいる小さな女の子が売春部屋に遊びに来たりする姿が描かれていて非常に興味深かった。
その後、珍しいものを見た。コロッケの自動販売機だ。オランダはコロッケの発祥の地だそうで、ちょっとしたおやつとしてみんなに愛されている。僕も買ってみたが、よく胡椒の効いたクリームコロッケのようで本当に美味しかった。
友人とご飯を食べ、アムステルダム中央駅へ。ここから夜行列車を乗り継ぎで次の目的地ドイツベルリンへ向かう。寂しいが友人とはしばしのお別れだ。友人は駅のホームまで送りにきてくれた。乗り込んだ列車の窓から見える友人がどんどん小さくなるのを見るのは本当に寂しいものだった。自らこの旅を選んだといえども。
この列車はチューリヒ行きで、夜半前に着くデュイスブルグ駅でベルリン行きに乗り換えることとなる。ボヤっと車窓を眺めている間に列車はドイツ領内に入っていたようだ。ドイツ語を話す車掌がチケットをチェックしに来た。親切にも次で降りるんだよと何度も声をかけてくれた。
一路ベルリンへ。
4/22 ベルリン 1日目
「ベルリン!」と車掌に声をかけられ目が覚めた。もうあたりはすっかり明るくなっていた。熟睡していたようだ。車窓をみると並走するSバーンの車両。ベルリン市内に入ったのだろう。しばらくすると列車はベルリン中央駅(Berlin Hauptbahnhof)に到着した。
そこから地下鉄に乗りお世話になる宿Hotelpention Margritへと移動。一泊45ユーロで朝食付きという安宿だが清潔で居心地のよいホテルだった。オランダに比べて総じて物価はこちらの方が安いようだ。
ドイツに入って気がついたのは車両にしても、案内標識にしてもそのデザインセンスが機能美に満ちていること。駅の乗車位置表示一つにしても質実剛健のデザイン。ドイツにはバウハウスという「形態は機能に従う」という言葉で有名な美術学校があり世界中のデザインに影響を与えたが、その合理主義的伝統が脈々と受け継がれているのだろうか。ベルリンにはミニマリズムをまとった地下鉄駅がよく似合う。
銀行の広告。この空間の開けっぷり、置きに行く感じが正にドイツ。
チェックイン時間よりだいぶ早いのだが、部屋を用意してもらうことができ、荷物をおいて早速ベルリンを散策にいった。まずは中心地のブランデンブルグ門、ウンター・デン・リンデン へ。2階建バスが来たので乗って適当に回ってみた。アムステルダムは可愛い街だったが、こちらは重厚さ荘厳さが際立っている。この辺りはかつて東ベルリンだったということもあるかもしれないが。
ベルリン中心部
ベルリン大聖堂
今回ベルリンで見たいテーマはベルリン分裂時代の痕跡だと決めていた。89年のベルリンの壁崩壊のニュースは13歳の僕にも非常に深い印象を与えたニュースだった。今でもその新聞紙面が脳裏に残っているほどで、ベルリンの壁とははたしてどのようなものだったのかをこの目で見たかったのだ。
まずはフリードリッヒストラッセ駅の近くの「涙の宮殿」へ。ここは東西ベルリンの市民が行き来できるチェックポイントの一つであった。西ベルリンへの渡航が許されていない東ベルリン市民が西ベルリンから訪ねてきた家族を涙を流して見送ったところ、それがこの「涙の宮殿」だった。今では当たり前のように行ったり来たりできるこの駅が、以前は文字通り命がけで通り抜けなければならないボーダーだった。
「涙の宮殿」に残る審査室。ここで通過を拒まれた人は数知れない。
涙の宮殿の見学後は、わざわざフランクフルトから来てくれたドイツ人の友人と待ち合わせ。彼とともに東ドイツ博物館へ。ここでは東ドイツ市民がどのような暮らしぶりだったのかを知ることができる。ヌーディストビーチブームがあったり、性に対して寛容だったりする、東ドイツの意外な一面を見てとることができた。ただそれでもシュタージと呼ばれる秘密警察の影に怯えて生活はしなければならなかったそうだが。
秘密警察の尋問を受ける友人
東ベルリン地区に残る社会主義的建築物
その後、友人とベルリン名物の豚足の煮込みでビールをいただきつつ懐かしい話に花を咲かせた。明日も友人は付き合ってくれるという。明日、一緒にベルリンの壁記念館に向かうことにして、一旦別れる。ベルリン1日目の夜はこのように更けていった。
4/23 ベルリン 2日目 その1 ペルガモン博物館、ベルリンの壁メモリアル
ベルリン2日目はあまりにも内容は重く濃いので記事を分けて書くこととする。
朝はペルガモン博物館の参観から始まった。
世界の遺跡をそのまま建物の中に移築して展示するというスケールの大きな博物館だ。
バビロニアのイシュタール門
ミレトスの市場門
ムシャッタ宮殿の一部
ペルガモン博物館でまず目につくのは古代都市ミレトスの市場の門である。ローマ=ヘレニズム様式のそのアーチは当時その門の内側にあった賑わいまで今に伝えてくれるようだ。次に見えてくるのがイシュタル門。そびえ立つイシュタル門は見学者を古代バビロニアへ誘う舞台装置だ。雄牛と竜のレリーフを横目に門をくぐると、左右をライオンの文様で飾られた行列大通りに出る。まるで古代都市の王を謁見するような感覚になる。
これほどの規模の建築物を展示する博物館は世界広しと雖もここだけだろう。その規模には圧倒されるが、やはり抱かざるをえない疑問はなぜここにこれらの建築物があるのだろうかという点だった。
美術館見学後は友人と落ち合い、共にベルリンの壁メモリアルへ。
ほとんどのベルリンの壁は撤去されているが、ここでは当時のまま保存されている。ベルリンの壁といっても一枚の壁で隔たれていたのではなく、内壁と外壁、そしてその間の無人地帯(時には自動射撃装置や地雷が埋められることもあった)で構成される完全なる遮断装置であった。ここではその構造を今でも見ることができる。また展示室もあり当時の写真や貴重な資料を閲覧することができる。今回は、今日、昨日の見学でかなりベルリンの壁についてのイメージをつかむことができたように思う。
ただ、その一方でこんなことを考えた。ベルリンの壁が崩壊し東西ドイツの統一が実現したことは素晴らしかったことだし、ここベルリンで人の移動の自由を遮断する装置がなくなったことはよいことだった。だが、まだ世界中に「壁」は存在している。ベルリンの地下鉄ではシリアからの難民の多くが物乞いをしている風景を多く見る。そんな難民の移動を阻む今あるハンガリーの壁、ギリシャの壁に思いをはせると複雑な気持ちになる。
当然ながら単純に壁をなくせばよいというわけではない。雇用や治安の問題はどう考えても発生する。物乞いが増えて良いわけがない。東西ドイツの統一時にも、元は同じ民族であったのに経済格差や習慣の差異に起因する摩擦による基本的な問題の解決まで20年は要したという人もいる。まったく文化背景の異なる人々が多数押し寄せることによってこれ以上の問題が発生することは火を見るよりも明らかだ。
だとしてもだ。シリアからの難民たちは何ヶ月もかけて命からがらこのベルリンにやってきて物乞いをしている。東西ドイツ分裂時に命懸けでベルリンの壁を超えた東ドイツ市民のように。それに対して日本のパスポートを持つ私は、ほぼフリーパスでふらっとベルリンにやってきてそんな彼らを物見遊山で観察している。同じ空間にいるのに両者の間には壁がそそり立っているようだ。世の中はどこまでも不公平で残酷なのは分かっている。だけれどもこの残酷さに対して何かができるのも、また人間なのだろうと思う。
少し疲れてしまい、場所を見つけ友人とビールを飲んで語らう。すると友人がフランクフルトへ戻らなければならない時間になった。来てくれたことに感謝し、見送った。次はいつ会えるだろうか。
その後、ひどく疲れていたが、一人ホロコースト記念館へ向かった。
それについては記事を改めることとする。