私のヨーロッパ日記

2016年4月19日から5月3日までヨーロッパを周遊しました。その日記です。

4/23 ベルリン 2日目 その1 ペルガモン博物館、ベルリンの壁メモリアル

ベルリン2日目はあまりにも内容は重く濃いので記事を分けて書くこととする。

朝はペルガモン博物館の参観から始まった。
世界の遺跡をそのまま建物の中に移築して展示するというスケールの大きな博物館だ。

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バビロニアのイシュタール門 

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ミレトスの市場門

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ムシャッタ宮殿の一部

ペルガモン博物館でまず目につくのは古代都市ミレトスの市場の門である。ローマ=ヘレニズム様式のそのアーチは当時その門の内側にあった賑わいまで今に伝えてくれるようだ。次に見えてくるのがイシュタル門。そびえ立つイシュタル門は見学者を古代バビロニアへ誘う舞台装置だ。雄牛と竜のレリーフを横目に門をくぐると、左右をライオンの文様で飾られた行列大通りに出る。まるで古代都市の王を謁見するような感覚になる。

これほどの規模の建築物を展示する博物館は世界広しと雖もここだけだろう。その規模には圧倒されるが、やはり抱かざるをえない疑問はなぜここにこれらの建築物があるのだろうかという点だった。

美術館見学後は友人と落ち合い、共にベルリンの壁メモリアルへ。

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ほとんどのベルリンの壁は撤去されているが、ここでは当時のまま保存されている。ベルリンの壁といっても一枚の壁で隔たれていたのではなく、内壁と外壁、そしてその間の無人地帯(時には自動射撃装置や地雷が埋められることもあった)で構成される完全なる遮断装置であった。ここではその構造を今でも見ることができる。また展示室もあり当時の写真や貴重な資料を閲覧することができる。今回は、今日、昨日の見学でかなりベルリンの壁についてのイメージをつかむことができたように思う。

ただ、その一方でこんなことを考えた。ベルリンの壁が崩壊し東西ドイツの統一が実現したことは素晴らしかったことだし、ここベルリンで人の移動の自由を遮断する装置がなくなったことはよいことだった。だが、まだ世界中に「壁」は存在している。ベルリンの地下鉄ではシリアからの難民の多くが物乞いをしている風景を多く見る。そんな難民の移動を阻む今あるハンガリーの壁、ギリシャの壁に思いをはせると複雑な気持ちになる。
当然ながら単純に壁をなくせばよいというわけではない。雇用や治安の問題はどう考えても発生する。物乞いが増えて良いわけがない。東西ドイツの統一時にも、元は同じ民族であったのに経済格差や習慣の差異に起因する摩擦による基本的な問題の解決まで20年は要したという人もいる。まったく文化背景の異なる人々が多数押し寄せることによってこれ以上の問題が発生することは火を見るよりも明らかだ。

だとしてもだ。シリアからの難民たちは何ヶ月もかけて命からがらこのベルリンにやってきて物乞いをしている。東西ドイツ分裂時に命懸けでベルリンの壁を超えた東ドイツ市民のように。それに対して日本のパスポートを持つ私は、ほぼフリーパスでふらっとベルリンにやってきてそんな彼らを物見遊山で観察している。同じ空間にいるのに両者の間には壁がそそり立っているようだ。世の中はどこまでも不公平で残酷なのは分かっている。だけれどもこの残酷さに対して何かができるのも、また人間なのだろうと思う。

少し疲れてしまい、場所を見つけ友人とビールを飲んで語らう。すると友人がフランクフルトへ戻らなければならない時間になった。来てくれたことに感謝し、見送った。次はいつ会えるだろうか。

その後、ひどく疲れていたが、一人ホロコースト記念館へ向かった。

それについては記事を改めることとする。